よもやま話とあれやこれ

どうでもいい話がたくさんできたらいいなぁ〜、と思っています!

テーマ小説(色)「桜色の旅路」

2-C組、御影春佳。時々、彼女は授業中に旅をしている。コンパクトな割に膨大な、国語辞典の中に収められた六万三千語を飛び回る気ままな旅だ。語彙や知識を増やしたいという崇高な目的がある訳ではなく、現代文の時間のちょっとした気分転換である。

現代文担当の伊藤先生は、大学を卒業したばかりの色白でおっとりしたかわいらしい先生で、授業は理知的な解説で進む非常にわかりやすいものだった。ただ、春の陽だまりのような柔らかな雰囲気とふんわりとした声は、お腹いっぱいになった午後いちばんにやってくる授業としては相性が悪すぎる。幾度も船を漕ぎ、時には沈没し、その度に伊藤先生の八の字眉の微笑みを向けられる羽目になるのは春佳も本望ではない。そこで思いついたのが辞書の旅だ。睡魔がふわふわと舞い降りてきたタイミングで机上の辞書の適当なページをぱらりと開き、興味がありそうな単語の解説に目を通す。そして、未知の言葉に出会う度、ぐるぐると手にしたシャープペンシルで丸をつけ、「世界には知らないことがたくさんあるね」とふぅんと小さく感心しつつ、ペンケースの中の桜色のカラーペンで、その日開いたページの背を塗りつぶすのだ。


【面映い】(褒められすぎたりして)照れくさい。


【すってんてん】一銭もたくわえ(持ち合わせ)が無かったり着たきりだったりの惨めな状態。


メルルーサ】大西洋・太平洋北部のおもに深海にせむ魚。十数種がある。からだは細長く、口が大きい。全長一メー トルを超すものもある。古くから食用として利用。


自分の中のふわふわとした気持ちを言語化するとこんな言葉になるのか、と感動したり、なぜこんな言葉が辞書に載っているんだろう...と呆れたり。メルルーサは気になりすぎて休み時間にこそっと調べたところ、イワシに凶悪な顔がついたような魚が現れた。なるほど。

そうして、感心と呆れを繰り返して睡魔をどうにかやり過ごすうちに、春佳の辞書は2学期が始まる頃には、ほんのりと桜色が目立つようになっていた。

 

チャイムが鳴り、授業が終わる。
ぱたぱたと机の上を片付け始めたところで、ふんわりとした声が降ってきた。

「ねえ、御影さんの辞書はどうしてところどころ綺麗な色をしているの?」

声の方を見上げると、伊藤先生が黒目がちの瞳をつやつやキラキラとさせて春佳のことを見ていた。先生の目には咎める色は全くなく、純粋な興味に満ちている。

「えっと、授業中に時間が余ったり...ちょっと集中できないなって時とかに、適当に辞書のページを開くんです。それで、 旅の記録みたいな…今日はここに来たぞ!っていう記録を残そうと思ってこんなふうに...。」

ああ、説明が難しい。授業がつまらないと感じているように思われただろうか。ただ、知らない言葉を知ることが、世界に色が増えていくように感じられたことが楽しいと、面白く感じたと言いたかったのに。言葉はたくさん存在するのに、それを使いこなすのは、伝えるのは、どうしてこんなに難しいんだろう。最初は見られていた先生の顔がなんだか見られなくなって、次第に視線は俯いていった。
「いいねぇ、辞書の旅。考えたこともなかったな。あなたの感性はとっても素敵だね。」

再び降ってきた柔らかな声に顔を上げると、伊藤先生は、春佳の言葉に呆れるでもなく、馬鹿にするでもなく、キラキラした瞳のままで楽しそうに笑っていた。
「辞書一冊であなたはどこにだって行けちゃうんだ。」

あぁ、わかってくれた。嬉しくなると同時に、思いがけず褒められたことで、なんだか面映い気持ちでいっぱい になった。「面映い」も旅の中で知った言葉だ。嬉しいけど、なんだか恥ずかしい。そもそも、当初の目的は眠気対策だ。 褒められたことではないというのは一番知っている。それでも。
「先生、ありがとうございます。」
「ん?どういたしまして?」

伊藤先生はニコニコしながら返事をしてくれて、それから、楽しそうな軽い足取りで教室を出ていった。春佳は傍らの辞書に目を落とす。桜色のページは、分厚い辞書のきっと十分の一にも満たないだろう。知らないことは山ほどあるし、記録を続けたところで、忘れることの方が多いのは自分が一番知っている。それでも、今日のことは忘れない気がした。こんな日があったといつか思い出せたならそれはきっと嬉しいことだ。よし、と独りごちると今度こそ片付けを進め、春佳は友人たちの雑談の輪へと歩いていくのだった。