よもやま話とあれやこれ

どうでもいい話がたくさんできたらいいなぁ〜、と思っています!

テーマ小説(色)「桜色の旅路」

2-C組、御影春佳。時々、彼女は授業中に旅をしている。コンパクトな割に膨大な、国語辞典の中に収められた六万三千語を飛び回る気ままな旅だ。語彙や知識を増やしたいという崇高な目的がある訳ではなく、現代文の時間のちょっとした気分転換である。

現代文担当の伊藤先生は、大学を卒業したばかりの色白でおっとりしたかわいらしい先生で、授業は理知的な解説で進む非常にわかりやすいものだった。ただ、春の陽だまりのような柔らかな雰囲気とふんわりとした声は、お腹いっぱいになった午後いちばんにやってくる授業としては相性が悪すぎる。幾度も船を漕ぎ、時には沈没し、その度に伊藤先生の八の字眉の微笑みを向けられる羽目になるのは春佳も本望ではない。そこで思いついたのが辞書の旅だ。睡魔がふわふわと舞い降りてきたタイミングで机上の辞書の適当なページをぱらりと開き、興味がありそうな単語の解説に目を通す。そして、未知の言葉に出会う度、ぐるぐると手にしたシャープペンシルで丸をつけ、「世界には知らないことがたくさんあるね」とふぅんと小さく感心しつつ、ペンケースの中の桜色のカラーペンで、その日開いたページの背を塗りつぶすのだ。


【面映い】(褒められすぎたりして)照れくさい。


【すってんてん】一銭もたくわえ(持ち合わせ)が無かったり着たきりだったりの惨めな状態。


メルルーサ】大西洋・太平洋北部のおもに深海にせむ魚。十数種がある。からだは細長く、口が大きい。全長一メー トルを超すものもある。古くから食用として利用。


自分の中のふわふわとした気持ちを言語化するとこんな言葉になるのか、と感動したり、なぜこんな言葉が辞書に載っているんだろう...と呆れたり。メルルーサは気になりすぎて休み時間にこそっと調べたところ、イワシに凶悪な顔がついたような魚が現れた。なるほど。

そうして、感心と呆れを繰り返して睡魔をどうにかやり過ごすうちに、春佳の辞書は2学期が始まる頃には、ほんのりと桜色が目立つようになっていた。

 

チャイムが鳴り、授業が終わる。
ぱたぱたと机の上を片付け始めたところで、ふんわりとした声が降ってきた。

「ねえ、御影さんの辞書はどうしてところどころ綺麗な色をしているの?」

声の方を見上げると、伊藤先生が黒目がちの瞳をつやつやキラキラとさせて春佳のことを見ていた。先生の目には咎める色は全くなく、純粋な興味に満ちている。

「えっと、授業中に時間が余ったり...ちょっと集中できないなって時とかに、適当に辞書のページを開くんです。それで、 旅の記録みたいな…今日はここに来たぞ!っていう記録を残そうと思ってこんなふうに...。」

ああ、説明が難しい。授業がつまらないと感じているように思われただろうか。ただ、知らない言葉を知ることが、世界に色が増えていくように感じられたことが楽しいと、面白く感じたと言いたかったのに。言葉はたくさん存在するのに、それを使いこなすのは、伝えるのは、どうしてこんなに難しいんだろう。最初は見られていた先生の顔がなんだか見られなくなって、次第に視線は俯いていった。
「いいねぇ、辞書の旅。考えたこともなかったな。あなたの感性はとっても素敵だね。」

再び降ってきた柔らかな声に顔を上げると、伊藤先生は、春佳の言葉に呆れるでもなく、馬鹿にするでもなく、キラキラした瞳のままで楽しそうに笑っていた。
「辞書一冊であなたはどこにだって行けちゃうんだ。」

あぁ、わかってくれた。嬉しくなると同時に、思いがけず褒められたことで、なんだか面映い気持ちでいっぱい になった。「面映い」も旅の中で知った言葉だ。嬉しいけど、なんだか恥ずかしい。そもそも、当初の目的は眠気対策だ。 褒められたことではないというのは一番知っている。それでも。
「先生、ありがとうございます。」
「ん?どういたしまして?」

伊藤先生はニコニコしながら返事をしてくれて、それから、楽しそうな軽い足取りで教室を出ていった。春佳は傍らの辞書に目を落とす。桜色のページは、分厚い辞書のきっと十分の一にも満たないだろう。知らないことは山ほどあるし、記録を続けたところで、忘れることの方が多いのは自分が一番知っている。それでも、今日のことは忘れない気がした。こんな日があったといつか思い出せたならそれはきっと嬉しいことだ。よし、と独りごちると今度こそ片付けを進め、春佳は友人たちの雑談の輪へと歩いていくのだった。

読書感情文『マグナ・キヴィタス 人形博士と機械少年』

特大感情の連続殴打!これがクソでかビッグラブ!!と震えた「宝石商リチャード氏の謎鑑定」シリーズのドブ沼にハマって狂い続けた昨年、同じ作者の別作品にも手を出してみようか、と辻村七子作『マグナ・キヴィタス 人形博士と機械少年』に手を出しました。
こちらは本作品プラス番外編一作が出ていて、さらに続きが読みたい気持ちもあるけど、作品としてはこれで完成されてしまったな〜と言う思いも強く、しばらくは余韻を噛み締めようと思っています。今回はそんな感じの読書感情文です。

さて、あらすじ。
アンドロイドと人間が暮らす近未来都市「キヴィタス」。アンドロイド管理局に勤める若きエリート、エルガー・オルトンは、帰り道で登録情報のない“野良アンドロイド”の少年を拾う。二人は不思議な共同生活を始めるが、アンドロイド、ワンは記憶を失っていた。彼の過去を探るうち、エルは都市の闇に触れてしまい…?というもの。

舞台となる人口都市キヴィタスは、全高一万五千メートルの会場に浮かぶ全五十六階層から成る巨大な海の塔で、裕福なものは上、貧困層は下で暮らすディストピアあるあるな階層制が出来上がっています。その貧富の差に加えて、人間とアンドロイドの明確な差が存在する世界です。体の9割サイボーグ人間とか自意識バックアップとかいう概念が出てくると、人間とアンドロイドの違いは何なのだろう…と考えてしまいますが、そんなことを考えていると裏表紙にもある「せめて血の色くらいは赤がよかったな」のセリフが痛烈に刺さります。血の色が赤いことが人間である証拠だとわかると同時に、強くて何でもできる生き物がずっと抱いていた寂しさや憧れといった感情がはちゃめちゃに「人間」を感じさせてくれる名台詞。

宝石商シリーズしかり、辻村作品の魅力は登場キャラクターの魅力だと思っているのですが、今回もコミュニケーション不器用の天才博士、エルと皮肉屋で闊達なアンドロイド、ワンの掛け合いが楽しい、これまた素敵な二人組でした。それに加えて起承転結メリハリたっぷりの大冒険…。面白かったです。作品単体なら辻村作品で一番かもしれない。
設定が複雑なSFを進んで読むわけではないため、例示できる作品も少ないのですが、『華氏451度』や『No.6』とは異なり、「腐ったこの世界を君とぶっ壊そう!」ではなく、「この世界で君と生きていこう」というテイストのディストピアSF作品は珍しい気がして、そこが辻村風味なのかなぁと思ったりもしました。買いためて手をつけていない本格SFにもそのうち手をつけられたらいいなぁ…。そのうち。
 


ちなみに番外編は、キヴィタスで生きる人間の営みにフォーカスした短編集で、どちらかといえばアンドロイド寄り視点だった本編とはまた違った時点でキヴィタスの世界を眺めることができます。エルとワンもちょろっと出てきます。

老化の研究が進み、寿命は伸び、記憶のバックアップがとられるため、死の喪失感は低下。生殖は相手と自分のDNAをシステムに提供することで完了するため、お腹を痛めて産む必要はなく、また、優秀な血を持つ「親」はDNAの提供者として引くて数多であるため、何人もの顔も知らぬ「子」が存在します。また、自身の死も成人になれば自分自身の裁量で決定することができる、行き届いているけれども人との繋がりが希薄な世界。そんな世界を舞台としながらも、全編通して人と隣人(アンドロイド)たちのさまざまな愛を描いているあたりが最高なんですね。

中でも、自裁を望む老政治家のもとに孫が突然連れてきたポンコツ女性アンドロイドのお話『ジナイーダ』はよかった。どれだけ便利な世の中にあっても人は誰かとの繋がりを望まずにはいられないのだ、と1話目からぶん殴ってくる作品です。なお、このお話、ずっと舞台は家の中だけで話が完結するのにお話の風呂敷は全然小さくないのがすごい。

自裁しようとしていたまさにその時、誤作動でポンコツアンドロイドが暴れ出したため、やむを得ず死を断念した老政治家は、成り行きで仕方なくポンコツアンドロイドに物事や自身のことを話すうちに、少しづつ過去と向き合うことになります。自分の中に閉じ込めていた思い出や感情が解けて、暴れて、そして静かに受け止めるという過程を経て、作品の最後に孫に告げる言葉がこれ。

「お前は、自分の感情を伝えるのがとても上手だね。それは才能だ。私やお母さんにはなかったものかもしれない。大事にするといい。きっとそれがお前を助けてくれるだろうし、お前の周りにいる人たちも助けてくれるかもしれない」

辻村七子『あいのかたち マグナ・キヴィタス』集英社オレンジ文庫,2021年,72頁

当初は孫に対しては当たり障りのない祖父であれればいいとか考えた人から出てくる言葉なんですよ。しかも、感情を表に出したり、相手の内面に踏み込むことが暗黙のうちにタブーになっている世界で。最大級の愛情と賛辞が詰まったこの言葉は、孫がキヴィタスの世界で生きていく中で、胸の中にずっと生き続けるものなんだろうなと思わずにはいられないものでした。大人をやってると否が応でも出くわす察し文化にうぐう…となることが少なくない身としては、勝手に救われたような気持ちになったものです。全人類、大切なことは口にしていこう。

 

つらつらとまとまらない感想文となりましたが、冒険譚が好きな人、特大感情のフルスイングを受けて見たい方は是非ご一読していただくと良いかと思います。それでは!

 

 

高校時代のあれこれ~お菓子は意地編~

恋バナは過去形か仮定形。現在進行形がほぼ存在しない女子高にもその日はやってくる。

「バレンタインデーどうする?」

そんな質問が飛び交うのは二月頭の頃だ。チョコレートを渡す相手は残念ながら男子じゃない。K女子高等学校におけるバレンタインデーは、普段お世話になっている先生、先輩、友人、後輩にお菓子(暗黙の了解として手作り)を渡す大規模イベントとなっている。この手作りお菓子というのがミソで、それなりに己のメンツがかかってくるがゆえに、期末テスト間近にも関わらず皆の本気度は高いのだ。

 

さて、高校生活二度目のバレンタインデー。朝から甘味が飛び交う一日であるが、バレンタイン本番は放課後の部活の時間である。私の所属する吹奏楽部も例外ではない。

「今年はティラミスをつくったんだ」

お菓子作りを趣味としており、部内でもその腕名高い彼女の声に、わいわいとお菓子の交換に勤しんでいた部員からわぁっと歓声が上がる。クッキーや生チョコ、ブラウニーあたりが定番な中でティラミスを選んでくるのが流石の彼女らしい。でも、ティラミスって小分けにできるものだっけ?と遠目から見ていた私はそこでふと思った。クリームがメインの柔らかいお菓子だから、ブラウニーとは違って切り分けも難しいだろうに…。

すると、彼女の前にぞろぞろと列ができ始めた。そして、部員の多くが並び終えたタイミングで、前に立つ彼女が取り出したのはタッパーだった。超特大の。彼女のその年の力作は超特大タッパー入りのティラミスで、贈り物の域を超えた、配給と呼ぶに相応しいものだった。

並ぶ部員の口に彼女は笑顔でティラミスをすくったスプーンを突っ込み、飲み込んだものは満足げに列から離れてゆく。「自主・自律」「人格の淘治」を掲げる高校の、誇り高き女子高生の姿はどこにもなかった。水族館でみたペンギンの餌付けショーって確かこんな感じじゃなかっただろうか。そんなことを思いながらも、食欲の前には品性なんてポイ捨て、私も無事ティラミスを突っ込まれてニコニコになった。

 

必要に駆られて作るお菓子に愛はあるのか!と当時は毎年半ギレでクッキーを焼いていたけれど、あの一年に一度、いろんな人の手作りが食べられる日というのは悪くなかった。家族以外の手作りが食べられる機会って意外とないし、己のメンツをかけているだけあってちゃんと全部美味しかったし。

料理が愛情ならお菓子は意地だったのかもなぁ〜、と23歳の私は、板チョコにかじりつきながらぼんやり間抜けなことを考えるのだった。

 

高校時代のあれこれ~引いて引かれた体育祭編~

「ギブアップ我らの女子力、ネバーギブアップ我らの勝利!」

五月晴れのさわやかな空に思想強めの白い横断幕が映える。ここは県立K女子高等学校。本日は絶好の体育祭日和である。

 

棒引きという競技をご存じだろうか。2つのチームが向き合った状態からスタートし、中央に設置されている数本の棒を陣地に持ち帰り、持ち帰った棒の数を競うという、基本的には瞬発力と走力が求められる種目である。

高校生活最初のイベントである体育祭は、女子高というだけあって、最も準備に時間をかけるのがチームごとに行う応援合戦だった。学年の縦割りでチームを決め、チームカラーで衣装を作り、歌って踊る華やかなものだ。先輩の熱血指導にややげんなりとはしていたものの、運動嫌いにとって競技にそこまで重きが置かれない体育祭というのは正直ありがたい。出場種目も基本的には希望制だったので、リレーや長距離走などの花形種目は適材に任せればよい。そんなわけで、「個人競技で周りの足を引っ張ることもないし、疲れなさそう」という極めて後ろ向きな理由で私は棒引きへの出場を決めたのだった。その目論見は、当日粉々に打ち砕かれることになるとも知らずに。

 

さて、話は戻って体育祭当日。

 

目の前には、目を血走らせた上級生がいる。最初の何本かは早い者勝ちで持っていかれたので、残った棒を持って走ろうとしたところで相手も気づいたわけだ。

「離せよ!!」

吠えるように叫ばれた。いや、女子力はギブアップしても人としての品性は捨てちゃあいけない。なんでたかが棒引きでここまでガチになれるんだろう。怖すぎる。

「絶対に離すんじゃない!!」

後ろからは味方であろう誰かの声が聞こえるけど、正直味方いらなかった。このままさっさと諦めて放したかった…。

ふと気が付けば大乱闘のまっさ中に自分は立っており、逃げることもできず涙目で棒を引っ張る羽目になった。チームの勝敗の結果は覚えていないが、引きずられながら死ぬ気でしがみついた棒は、結局相手側にぶん捕られたことは覚えている。ずるずると人間たちが引きずられていく様子を応援席から眺めていた友人は「人生の中で一番ドナドナを流したいと思った光景だった」と語った。買ったばかりの体操着は上下ともに砂まみれで、なんならジャージのズボンは擦り切れができていた。高校一年生、最初の楽しいイベントであるはずの体育祭で、自分が入学したのは脳筋高校だったという事実を知ったのである。

 

その後も、「逃げ」種目であるはずのドッジボールで即死級の剛速球が飛んでくる球技大会、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という謎スローガンのもと極寒の季節に行われる10キロマラソン、受験期なのになぜか増える体育の授業(理由は前述のとおりである)、そして男手なんてないので気合と根性で日常的に行う重い荷物の運搬。そんなことを三年間繰り返したおかげか、精神の虚弱さに反比例するようにかなり強靭な肉体を手に入れた。ついでに、気合と根性でたいていのことは何とかなることを知ってしまったおかげで、今でも肉体労働は人手を借りず(反射で手助けを断ってしまうため借りられず)、一人で何とかしてしまう自分がいる。

「重いでしょう、手伝います」と言ってくれる優しい気づかいに、条件反射で「あ、大丈夫です~」と微笑むたびに脳裏に流れるのは、愛すべき我が母校の校歌である。

赤ちゃんがかわいかったから遅刻しました

遅刻の理由は人の数だけあると思うけど、遅刻の理由として「赤ちゃんがかわいかったから」としか言えない状況になったことがある。

 

遡れば高校三年生の夏。

模試があったその日も、ギリギリまで布団に粘り続けた私は、これに乗りそびれたらもう後がない電車に乗りこんだ。といっても、普通に電車に乗って、会場の最寄り駅から歩けば開始10分前くらいには着く“はず”だった。

 

会場の最寄り駅でドアが開いた瞬間、ことは起こった。

 

ただただ「めっちゃくちゃかわいい」としか言えないような赤ちゃんを抱いた夫婦が電車に乗ってきたのだ。

もう赤ちゃんの顔の記憶も定かではないけど、「かわいい…」と思った「気持ち」の記憶だけは未だ残り続けているので本当にめっちゃくちゃ可愛かったんだと思う。

吸い込まれるように赤ちゃんを見つめて、見つめて、見つめ続けてしまい、気がつくとドアは閉まっていた。

 

そして電車が走り出した。

 

もはや誰も歩いていない会場への道を一人走る最中、受験知識でぱんぱんの頭で遅刻の言い訳を考えてみたけれど、どう考えても「赤ちゃんがかわいかったから」しか浮かばなかった。

赤ちゃんに罪はない。赤ちゃんはかわいいものだ。かわいい赤ちゃんに魅入られた私が100%悪いのだ。

しかし、遅刻の理由としては「赤ちゃんがかわいかったから」としか言いようがない…。

 

会場まで全力疾走を続けた結果として、凄まじい形相で途中入室をすることになったためか、体調を気遣われることはあっても、遅刻の理由は聞かれないままだった。

「赤ちゃんがかわいかったから遅刻しました」という遅刻の言い訳は、結局日の目を見ることは叶わず、しょーもない過ちの記憶として頭の片隅に置かれることになった。

 

…ということを今日ふと思い出したのは、生まれて半年ばかりの赤ちゃんを連れて職場の方が挨拶にやってきたからである。

ふにゃふにゃと笑いかけてくる赤ちゃんは、あの時の赤ちゃんと同じようにめちゃくちゃ可愛くて、気がつくと入れたばかりだったはずのお茶は冷めてぬるくなっていた。

 

しうかつ童話「有田とキリギリス」

育った環境がいいと自分の将来に余裕が持てるのか、「人間力の勝負なら負ける気がしない」とか、「なんか仮想通貨が最近すごいらしいから大丈夫」とかいう楽観的人間は、いくつになってもいたりします。

キリギリスという青年もそのうちの一人でありました。

虫みたいな名前をしていますが、彼は大企業の御曹司で、美しく整った顔に浮かべる胡散臭いさわやかな笑顔は周りの人々を魅了してやみませんでした。

親の威光で光り輝き、人生を謳歌するそんな彼の友人の中に、有田という庶民がおりました。

いつもニコニコしているキリギリスとは対照的に、有田はいつも苦虫をかみつぶしたような顔をしており、彼が笑った日には雨が降るとまで言われていました。

子だくさんの家庭の長男に生まれたために、勉強はもちろん、料理に掃除に洗濯、弟や妹の世話、奨学金返済のためのバイト……、とやるべきことが有田にはたくさんありましたが、彼には一人でそのすべてをやり遂げる優秀さがありました。

 

しかし、不機嫌そうな表情にそっけない物言い、何より一人で何事もこなしてしまう能力の高さから、周りの人々は有田を尊敬しつつも、どこか近づきがたい雰囲気を感じていたのです。

だから、有田の仲のいい友人と呼べる友人はキリギリスくらいのものだったのでした。

 

さて、ある夏の日、いつものようにキリギリスが揚々と自作の歌を歌っていると、そこに一人の青年が歩いてきました。

「やあ、有田。そんなに汗をびっしょりかいて、何をしてるんだい?」

「これはキリギリスさん、わたしは職を探して駈けずりまわっているんですよ」

有田は眉間にしわを寄せ、苦虫をかみつぶしたような顔に笑顔を浮かべるという何とも形容しがたい顔でキリギリスに言いました。

「ふーん。だけど、まだ大学の3年生じゃないか。どうして、この時期からそんな頑張るんだい。

僕みたいに、お小遣いに困ればそのへんでお手伝いでもして、あとは楽しく歌を歌ったり、みんなと遊んだりしていればいいじゃないか」

「俺はお前と違って、大学出たら行くとこが決まってるわけじゃないんだよ。まだ3年だからとか言っても、今のご時世何があるかわからないからな。

今のうちにやることやっとかないと、お前もあとで困るかもしれないぞ」

有田がそう言うと、キリギリスは少し首を傾けてからにこりと笑って

「まだ3年生は始まったばかりだよ。就活のことはその時になったら考えればいいだろう?」

そう答えると、苦虫を10匹ほどかみつぶしたような顔になった有田を残して、また歌を歌いながら去っていきました。

 

それからも毎日キリギリスは陽気に歌って遊び、有田はせっせと就活にはげみました。

やがて3年生も終わり、彼らは大学の4年生になりました。

キリギリスは、ますます陽気に歌を歌っています。

 

そして、寒い寒い就職氷河期がやって来ました。

多くの企業が打撃を受け、それはキリギリスの父親の会社も例外ではありませんでした。人を雇う余裕がなくなった彼の父は、息子を「武者修行」という名目で社会の荒波に放り出しました。

 

当然、今までのうのうと暮らしてきたキリギリスが職を得るのは並大抵のことではありません。

「ああ、お腹が空いたな。困ったな。どこかに僕を雇ってくれるところはないかなあ。

…あっ、そうだ。有田は最近一人で会社を興したとか言っていたな。なぜかすぐにやめてしまう人も多いと聞いたけど…、あの有田ならどうにかしてくれるかもしれない。よし、有田のところに行ってみよう」

キリギリスは急いで有田の家にやって来ましたが、有田は家の中から、

「だから、時間に余裕があるうちに企業の情報を集めておけといっただろう。

会社は始めたばっかりで、正直まだまだ軌道に乗ったとは言えない。人を雇う余裕なんてないんだ。悪いけど、自業自得ってやつじゃないか」

と言って、扉を開けてくれませんでした。

 

キリギリスは雪の降る公園の真ん中で、冬と社会の寒さに震えながらしょんぼりしてしまいました。

そしてふと閃いたのです。有田の会社には何が足りないのかを。

キリギリスは再び有田の家へ向かって走り出しました。

 

「有田、有田!! この僕を君の会社に雇ってくれないだろうか。

僕は君と違って何も知らない、わからない。

だけど、人を喜ばせること、楽しませることなら誰よりもわかっているつもりだよ。どうか僕を助けてくれないだろうか。僕も君を助けたいんだ」

「人を喜ばせて、楽しませるだけで何ができるんだ。そもそも、今は人を雇う余裕がないと言っているだろう。まだまだ俺は頑張らないといけない。悪いが、邪魔をしに来たなら帰ってくれないか」

返ってきたのは、ため息交じりの声でした。

けれど、キリギリスは負けません。

「聞いて、有田。お前は昔から人一倍の努力家で僕と違って結果をちゃんと出している。本当に尊敬しているし、お前の忠告に耳を貸さなかった自分を恥ずかしく思うよ。

だけど、あんまりに一人で頑張っていると周りはさびしく思うんじゃないかな。もっと、有田の周りの人を頼ってあげれば、きっとみんなは喜ぶと思う…」

「なッ…!」

びっくりした顔で有田は立ちつくしました。彼に言われたことは図星でした。周りを顧みずにがむしゃらに働く社長についていける自信がないという言葉を残して、今朝方も一人の社員が彼のもとを去ったのでした。

「ねえ、有田。お願いだよ。僕もこれからは心を入れ替えるから、どうか君と一緒に頑張らせてくれないだろうか。

僕なら君と、君の会社のみんなとの橋渡しができると思うんだ」

 

こんなキリギリスの真剣な声を4年以上にわたる付き合いの中で有田は始めて聞きました。一瞬黙って唇を引き結んだあとにふっと頬を緩ませると、有田は扉をあけてキリギリスを中へ迎え入れました。

「そうだな、お前の言うとおり俺は一人で頑張りすぎていたのかもしれない。お前のそんな真剣な声は初めて聞いたよ、キリギリス。今の心を入れ替えるってセリフを忘れるなよ、いつもみたいに寝坊したり、仕事中にギターを弾きだしたりしたら即刻クビだからな?」

「もちろんさ、ただ、仕事中の鼻歌くらいは許しておくれよ?」

 

二人は顔を見合わせて笑いました。

 

さて、それから有田の会社はめきめきと業績を上げ始めました。努力を怠らず、頭も切れる有田の手腕と、周りを喜ばせようといつでもニコニコ楽しそうにしているキリギリスが、社員に素晴らしくいい影響を与えたのです。

いつも苦虫をかみつぶしたような顔をしていた有田にも笑顔が見え始め、キリギリスもすっかり働くことが楽しくなって、二人はそれからも仲良く楽しく働きましたとさ。

 

おしまい。

想像と創造のビートルズ

早くも洒落乙なタイトルにしちゃったことを後悔している。長々書いてみたけど、これは私が英語ができない、というだけの話だからだ…。

  

私はThe Beatlesの音楽が好きで、彼らの曲は高校生の時から勉強のお供だった。

メロディーが好みなのもあるが、日本語だとどうしても歌詞の内容に頭がいってしまうから勉強の妨げにならなかったことも理由の一つだ。

 

そんな訳で、The Beatlesの曲はリスニングで勝手に作り上げた壮大なイメージで内容理解をしていた。

ちなみに、私は人より英語ができない。どのくらいできないかと言うと100人以上の前で

 

「あうたむ スポーツ!(Autumn sports )」

 

と叫んでしまったくらいにはできない。 

受験期は私大の英文で「オペン…!?!?オペンってなんだ、またここで専門用語か…!??!!?」となって辞書を引いたら

 

「open(開く)」

 

と出てきた。辞書をぶん投げた。

 

 

けれど、好きな曲の内容も知らないで好きなんて言っていいのかなぁ…せっかくの名曲の中身を知らないのもなぁ…と思う気持ちが年々強くなってきたので、今更ながら今回和訳サイトをあたってみることにした。

 

 と、あらびっくり。今まで聞いていた曲は本当にこれか!?!?!!と思うくらい原曲の内容は想像とかけ離れていた。

 

んな訳で、ここでようやく本題。「言語が理解できないと全く違う曲が誕生してしまう」というお話です。

 今回はビートルズの中でも特に気に入っていて、中身が原曲とかけ離れていた二曲をご紹介します。

  

YouTubeとかで曲を流しながら読むと、より一層私の脳内イメージをお楽しみいただけるかもしれない。

 

まず一曲目が

The long and winding road
直訳すると「長く曲がりくねった道」でいいのかな。これに関してはそもそもタイトルから間違えていた。 

 

私はこの曲を結婚式の歌で、日本の「乾杯」的な感じの曲「The long and wedding road」(これ改めて見てみると形容詞と名詞が並んでる時点でヤバいな)だと思っていた。長渕剛さんごめんなさいだ。

 

実際はビートルズの解散のきっかけになった歌だとかなんだとか、曲が作られるまでの事情も複雑な一曲だった…らしい。

 

そんな複雑な1曲を、今までこれを長い長いバージンロードを通って花婿の元へ向かう花嫁とその父親の絵を浮かべて聴いてきちゃった訳だ。

言い訳するとwinding とwedding って耳で聞くぶんには似てるし、曲の雰囲気もそれっぽいので、私の目には父親の眼に浮かぶ涙、優しく笑顔で祝福する参列者の顔まで見えていた。

 

…が、和訳を見た瞬間に結婚式場は音を立てて崩壊した。

 

花嫁も花婿も涙を浮かべる父親も参列者も恐らく式場の下だろう。私の英語力が足りないばかりに沢山の犠牲を出してしまった。すまないことをした……。

 

 

気を取り直して二曲目

「We Can Work It Out」

ノリよくポップな曲で、タイトルの字面から「楽しく愉快に働こう!!!」な曲だと思っていて、これを聞く時の脳内ではパリピのにーちゃんが海の家で楽しくノリよく働いていた。なぜ海の家なのかは私にも分からない。

 

で、これまた和訳を見るとびっくり。この曲はうまくいかない恋人たちが苦難を乗り越えようとする歌で、オリジナル和訳タイトルは「恋人たちの悩み」。

 

「We Can Work It Out」は「僕らならうまくやれる」ってな具合に彼女を説得するセリフで、

 

「働くってサイコー!!ヒャッハー!!!!!」

 

では、どうやらないらしい。

 

なんてことだ。パリピのにーちゃんが急に陰がある男に見えてきてしまった。心なしかしょんぼりしているようにも見える。

ここでも私の英語力がないばかりに……。唇を噛み締めた。

 

というわけで、和訳サイトを軽い気持ちで見た結果、式場は崩壊し、パリピのにーちゃんの新たな一面を知ることになってしまった。

想像と現実のギャップは大きい。

 

「To be or not to be」を「あります、ありません、あれはなんですか?」と翻訳した明治の人にこれほど近しいものを感じたことはかつてないし、今後も二度とないだろう。 

 

20歳にして気づくことでは絶対にないが、言語の壁はかくも大きいものである、と実感させられる体験だった。言語ってツールだもんな。

 

こんなんに言われてもThe Beatlesの皆さんにもファンの皆さんにも頭を抱えられるだろうけど、「The long and winding road」も「We Can Work It Out」もめちゃくちゃいい曲なので是非聞いてみてください。
まとまらないのでこの辺でおしまい!